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「何かのせい」にしたい気持ち

明けましておめでとうございます。
みなさまどのようなお正月だったでしょうか?

2020年のクリスマス、サンタさんがNintendo Switchを持ってきてくれたのですが、子どもと一緒にマリオカートをやったり、寝たり・・・と家族でゆっくり過ごしました。マリオカートの楽しさにびっくりしています。

「ゲームが悪い」のではない

子どもの頃、テレビゲームは多少持っていたのですが、ずっと「悪いもの」のイメージが自分の中では先行していました。だから、ゲームを持っていてもやることになんとなく罪悪感があり、私は正直なところそこまでのめり込むことはありませんでした。

どうしてゲームを「悪いもの」と思っていたかと言うと「ゲームばっかりして」と怒られたり、お手伝いができてなかったらゲーム禁止になったり、やはり周りの大人の言っていることが大きく影響していたと思います。

今なら別にゲームが悪いのではなくて「ゲームをしていたから、本当はしないといけないことができてなかった」ことが問題だったのだと、思えるのですが。子どもの頃はそれが言語化できなくて、なんとなく「ゲームのせいじゃないのになぁ」ともやもやしていたなぁと思います。

「何かのせい」にして楽になれるのはこの瞬間だけ

ゲームに限らず、つい「何かのせい」とか「誰かのせい」にしてしまうことがあります。

「休みの日に、自分のパソコン作業がしたいのにとこどもが邪魔をしてきてできない。」

なんてついつい子どものせいにしがちなのですが、子どもが邪魔をしてくるって言うのは予測できているはずなのに、パソコン作業を先延ばしにしている自分の行動を見直すことで、その不満を根本的に取り除ける可能性があるんですよね。う〜ん、反省。

何か思わしくないことが起こった時、「何かのせい」にして自分を守ることは簡単です。でも、本当にそれは楽ができているのでしょうか?

本当は自分でどうにかできたのに、それをしなかったから今回はこんなことになった、じゃあ今度はこうしよう、と考えて自分が成長できたほうが未来は楽になるのではないでしょうか?

自分の責任を誰かに押し付けてしまうと、せっかくの自分の成長の機会を失ってしまうんですよね。

子どもがどこかに頭をぶつけたとき等に「この柱が悪いねぇ」とか、モノのせいにして子どもをなだめる姿をたまにみるのですが、それも今この場をやり過ごすには良いのですが、その子やそれを聞いている他の子どもにとってはあんまり好ましくないよなぁと、私自身は言葉に神経質な方なので気になったりします。

それでも今日も「何かのせい」にする

今日も「寒いから起きられない」「疲れたから今日はご飯作りたくない」と「何かのせい」にしながら過ごすのだろうな・・・と思いながらこのブログを書いています。自分でコントロールできるもの、できないもののバランスを取りながら、いい感じに力を抜いて毎日過ごせればいいな〜と感じています。

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